特集 3 足利尊氏と三宝院賢俊  藤井雅子

特集3 足利尊氏と三宝院賢俊

足利尊氏と賢俊(史料1)とを深く結びつけたのは、建武三年(1336)二月尊氏が九州に敗走する途中に、「勅使」として賢俊が北朝の光厳上皇の院宣をもたらし、「朝敵」となることを免れたことによると考えられています(「梅松論」)。当時、尊氏は南朝の後醍醐天皇と対立して戦う中で、後醍醐天皇への叛旗を正当化するために北朝の承認を最も欲しており、その証しとなる院宣の到来は、尊氏の政治・軍事上の立場に重要な転機をもたらしました。では何故、賢俊が尊氏のもとに院宣を持参したのでしょうか。賢俊〔正安元年(1299)~延文二年(1357)〕は、鎌倉後期に持明院統(後の北朝)に仕えた日野俊光の息として生まれましたが、その兄弟には北朝に与した資名・資明、南朝に味方した資朝がいました。尊氏は北朝の院宣を得ようとして資明を頼みとしたために、その兄弟で僧侶である賢俊が「勅使」の役割を果たすことになったのでしょう。

観応二年(1351)正月、尊氏は弟直義と対立し京都を追われましたが、この時、賢俊は尊氏の軍勢に従うことを決意しました(史料2「賢俊書状」10函34号)。

足利尊氏と三宝院賢俊

将軍尊氏にご同道申し上げることにしたので、自分の運命は偏に尊氏のご命令に任せることにしました。よって戦場にお供することは、僧侶の身としてあってはならないことであり、(賢俊の列した三宝院流である)法流にとって恥ずべきものでありますが、神仏のお導きであるので、嘆くばかりの心中を察していただきたい。ただし今の状況は自分の力ではどうしようもない事です。旅先において私にもしものことがありましたならば、世の中が静まり治まった時に、関係の者たちと相談して、先師たちの遺したもの(院家・法流・所領等)を(今後も)ますます発展させるようにしてください。

賢俊はこの書状を弟子である光済に宛ててしたためました。この中で賢俊は僧侶の身で従軍することを恥じていますが、これまで尊氏から受けた恩情を考慮すると、従軍は避けられないことであると諦めているように感じられます。

このように賢俊が尊氏に対して強く忠誠を誓った理由は、賢俊が寺内外において獲得した立場が尊氏の後見に基づいていたためです。鎌倉後期から南北朝期における醍醐寺は、「四 南北朝の動乱と醍醐寺」で述べるように、大覚寺統(後の南朝)の影響を強く受けており、後醍醐天皇の寵臣であった文観弘真が勢力を持っていました。それに対して賢俊の先師たちは、法流や院家という由緒はあるものの、対抗できる切り札を持っていませんでした。そうした中で冒頭で述べたような尊氏と賢俊との関わりが生まれ、賢俊は醍醐寺座主に補任され、寺内の有力院家を「管領」(管理支配)するよう尊氏から認められ(「醍醐寺新要録」)、寺内を統括する立場を強めていきました(「座主次第」)。また寺外においても真言宗の長官である東寺長者、足利氏(源氏)の氏社である六条八幡宮や篠村八幡宮の別当にも任じられ(史料3「足利尊氏御判御教書」1函2号1番、「五八代記」)、尊氏や武家護持のために積極的に祈祷を行いました(「賢俊日記」「五八代記」)。さらに幕政にも関与しましたが、当時北朝公卿であった洞院公賢は賢俊について、「彼の僧正公家・武家の媒介、すこぶる軽忽といへども、毎時彼をもって指南となし、仰せ通さるるなり(彼の僧正は公家武家の間のなかだちを果たし、非常に軽はずみで愚かではあるが、すべての事柄は彼の指図によって(将軍らに)仰せ通されるのである)」(「園太暦」観応元年十月十七日条)、「栄耀至極、公家武家権勢比肩の人なし、なかんづく諸人の蠹害(とがい)、大略彼のヽ(マゝ)のために生涯を失うの輩あるの由、風聞あり(栄え世をときめくこと甚だしく、公家武家の者で彼に匹敵するような立場の者はいない、中でも諸人にとって害をなす者であり、彼のために地位を失った者が多いといううわさがある)」(延文二年閏七月十七日条)と評しました。この記述から、如何に賢俊が尊氏に重用されたかをうかがうことができるとともに、賢俊の発言力の大きさを敵視し、憂慮する風潮があったことがわかります。

しかしながら賢俊の尊氏に対する強い思いは本物だったにちがいありません。それは尊氏の「慎歳(つつしみどし)」、すなわち厄年に当たる延文二年(1357)の出来事から知ることができます。この年の二月、賢俊は石清水八幡宮の宝前に願文を捧げ、尊氏から「多年の芳契」「数箇の重恩」を受け、それらに「酬」いるために、賢俊の「少量の身」をもって、「大樹(将軍尊氏)の命」を「祈り代える」ことを立願しました(「前大僧正賢俊自筆願文案」21函58号)。つまり尊氏の厄を賢俊が代わりに受けることを求めたのです。この賢俊の願いが聞き入れられたのか、この年尊氏は無事に過ごすことができましたが、賢俊は閏七月十六日に入滅しました。

賢俊の四十九日仏事において、尊氏は自ら筆を取って般若理趣経を書写し供えましたが、それが今も醍醐寺に残されています(史料4「理趣経 足利尊氏筆」醍醐寺所蔵)。尊氏の決して達筆とはいえないながらも一字一字丁寧に書かれた文字に、尊氏の賢俊への深い情が伝わってくるように思われます。

-参考文献-

  • 笠松宏至氏「僧の忠節」(『法と言葉の中世史』平凡社、1993年)
  • 笠松宏至氏「回想の『醍醐寺文書』」(『中世人との対話』東大出版会、1997年)
  • 森茂暁氏「将軍門跡」(『満済』ミネルヴァ書房、2004年)
    森茂暁氏「三宝院賢俊について」(『中世日本の政治と文化』思文閣出版、2006年)
  • 図録「世界遺産 醍醐寺展-信仰と美の至宝-」日本経済新聞社、2001年
  • 図録「足利尊氏-その生涯とゆかりの名宝-」栃木県立博物館、2012年

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