特別寄稿

-醍醐寺の文化財伝承と調査の百年-

聖宝理源大師の祈り

平安時代、大きな時代背景を受ける中、祈りを中心として醍醐寺は開創された。平安の頃は都が京都に遷されて羅生門を中心に公の寺である東寺と西寺が建立された。その後、今日の都を取り巻くように寺院が建立された。大覚寺、仁和寺はどちらも官立的な寺院として開かれた。しかし醍醐寺は、これらの寺院と違い、私的な寺として開創された。よって、醍醐寺の持つ願いは、聖宝理源大師が心に描いた祈りの世界であるといえる。

聖宝理源大師が醍醐寺を開創したのは、貞観16年(874)。伝統的な修行を通し新しい仏教を見いだそうと努力し、准胝・如意輪の両観世音菩薩を自ら彫り、小さな庵に祀り、醍醐寺開創の第一歩を上醍醐に標された。以来、醍醐・朱雀・村上の父子三代の天皇、穏子皇后の帰依のもと、上醍醐に薬師堂を建立し、薬師三尊を奉安、鎮護国家のために五大堂を建て、五大明王を奉る。下醍醐に釈迦堂・法華三昧堂・五重大塔が建立され、醍醐寺は下醍醐へと広がっていった。

祈りの中の文化財伝承

平安時代末には、白河上皇・源氏の帰依とともに多くの堂宇が建立され、広大なる一山の整備がなされた。鎌倉時代になると、真言事相の根本道場としてその権威を高め、同時に多くの密教美術を産み出した。南北朝期には足利尊氏の帰依を一身に集めた賢俊座主、足利義満将軍率いる室町幕府において黒衣の宰相と言われ重んじられた満済准后、桃山時代に秀吉の帰依のもと「醍醐の花見」をもって一山を中興した義演准后、江戸時代には修験道3000名を伴い大峯山入峰をなし、修験道興隆を図った高演座主等々、歴代碩徳を迎え寺は護られてきた。

しかし近代、明治の廃仏毀釈の悲風は容赦なく山内を吹き荒れ、寺の護持基盤は大きく揺るがされる。この状況の中、当時の座主は、経済基盤の対価として寺が伝え来た什宝を手放して寺を守るのではなく、寺とともに什宝を永世護持するとの立場を英断した。この英断のもと、今も一山の伝承の管理が進められているのである。

伝承の重さを想う

聖宝理源大師は、祈りの一つの特色として、自分の心の中に潜んでいる霊性というものを高めることにおもむきを置かれた。東大寺で学ぶ三論・法相・華厳教学という仏教学に対し、祈りをどのように実践するかということに心を馳せられ山岳修行をされた。吉野、熊野、大峯山での斗藪修行の中で霊異相承ということを中心に祈りの世界を開かれた。それは今日伝えられている加持・祈祷の祈りである。この加持・祈祷をすることによって時の為政者の信を得ていた。従って醍醐寺は出発が私寺でありながら官寺のような様相を示しており、その中で生まれた伝承物のすべてのものが伝承されてきたのである。

この伝承の重さを目の当たりにして、私は、現在醍醐寺の総責任者としていつも怖さを感じている。それは折々の座主の判断の重さを思わずにはいられないからである。特に明治維新、近代社会の波が押し寄せたときの座主の判断、これを尊く受け止めている。醍醐寺の什宝を永世に保持しなければならないという立場に立った時、当時の座主は、醍醐寺が管理している末寺、3000ヵ寺を他の真言宗の本山に譲渡することに依って資金を生み出し、醍醐寺は一時をしのいだのである。おりしも海外へ多くの文化財が持ち出された時期でもあったが、醍醐寺は、文化財の海外流出も紙一紙に至るまで搬出することなく防いだ。

文化財調査の始まり

ちょうどその頃、明治17年、時の政府に修史局という局ができ、そこで全国の伝承物の調査が開始された。そしてこの公の機関も醍醐寺で調査を始め、その調査員の一人に醍醐寺の近隣に住んでいた、田中勘兵衛教忠氏がいた。田中氏は国史に造詣が深かったが、収集家でもあった。そして公の調査とともに醍醐寺の文書に着手し、田中氏自身が自我流に目録作成を始めたと記録されている。それと前後して、東大の史料編纂所より黒板勝美先生が醍醐寺へ調査にこられた。明治35年のことであった。黒板先生は、文書箱一つ一つにラベルを貼りながら、中の文書の確認を始められた。先生はラベルを付けた箱別に目録を取る作業をされた。しかし、黒板先生が行った最初の調査史料は、田中勘兵衛氏によって全部破棄されて、醍醐寺には残っていない。この田中氏の行為に時の座主は疑念を抱き、京都府知事と相談の結果、黒板先生の提案による京都府の社寺課と醍醐寺の代表者と、そして調査の代表者の三者での立ち会いのもと蔵を開けることが実行された。このことは現在も守られ、調査の時は醍醐寺文化財研究所所長大隅和雄先生と醍醐寺との立ち会いのもと蔵を開けている。

調査100年を経て

黒板先生が始められた調査の組織立ては、醍醐寺の『新要録』に顕れた義演准后の想いをしっかりと受け止めている。醍醐寺での文書調査は、大正3年(1914)から正式に始まった。先生はそれより5年前、明治43年(1910)に醍醐寺にこられて予備調査をされ、大正3年(1914)、現在のような組織立った調査が始まった。この調査は、座主の命に依って何があっても続けられてきた。そして100年、今ここに、聖宝理源大師1100年御遠忌にあわせ大きな成果のご報告ができた。私は醍醐寺の管理責任者として就任当時、おそらく自分が生きている間にこの1100年の法要は迎えることになる、その時までに続けてきた古文書調査の結果を基に国の文化財指定を受けるということが、先生方の学徳に応える道であると考えた。学徳に応えることができれば、醍醐寺の伝承物の社会評価を得ることができると思った。今思えば浅はかな考えでしたが、大隅和雄先生、奥田勲先生にお話しする中で、一つの方向性を見いだしました。語学中心の学問を進めてきた自分にできることは、索引作成を目的にし、醍醐寺に伝承される古文書、史料が種別、年代別、目録、索引として作成されることであり、それができれば先生方の学徳に応えられ、同時に学会に大きく寄与し、世界の研究者に貢献できると確信した。そこで先ず取り組んだのが、醍醐寺の文化財すべてのデータベース化であった。その頃、東大の史料編纂所で永村眞先生とお話しする機会があり、先生のご研究から、文書のデータベース化の推進、特に目録作成ができ、索引もできることを確信した。

そしてこの仕事が進行するとき、後ろを振り返ってみた。明治の初年、文書はどちらかというと古紙同然の扱いであった。それが醍醐寺文書の調査の歩みと同時に、国の方針として文献史料の重要性が認識され、文書の文化財指定が進んできた。それまではどちらかと云うと彫刻、建造物の指定に対して、古文書が参考史料としての扱いであった。しかし黒板先生以来の努力で、その文書ひとつひとつの価値というものが大切であるということが認められてきた。文書が独立して文化財として指定され始めたのは近年のことであり、醍醐寺としては、この史料が生かされてこそ、その先人の思い、そして調査をなさってくださった先生方への学徳に応える道であるということの意を新たにしている。

醍醐寺の未来に向けて

私が直接伝承物に触れたのは、昭和50年の開創1100年法要の時であった。岡田宥秀座主の「一緒についてこい」という言葉に導かれ正式に蔵に入った。その日までは、主に東京で各省庁や文化財関係の先生方との連絡に東奔西走の日々で、寺内にあっても蔵に入ることはなかった。その時初めて南蔵の2階へご一緒すると、そこに二つのつづらがあった。一つには葵紋、もう一つは五七の桐の紋が入った箱で、その前に座主は正座された。この時の座主は麻の白衣、麻の衣を着る厳粛な姿でした。普段とは違うお姿で座主は静かに「この箱の中は歴代の座主の伝承物が入っている、これは座主のみが開けるものである」と語られた。そして箱に手をかけられ、読経しながら開き、宝物を手にしながら涙しておられた。私はそのそばで拝見した。一つには水晶の大きな念珠があり、本連仕立ての房は本当にくしゃくしゃになっており歴代の座主の祈りの深さを物語っているように拝し、また各時代の座主の念誦塔である小さな水晶の五輪の塔もあった。その他、いく品もあり、恐れ多いことだが本当におもちゃ箱のような感じで見入った。上醍醐慈心院の銘の入った鎮壇具も眼に留まった。慈心院は醍醐水の源である。それを感ずるとき、醍醐寺の文化財の伝承の意義というものは、歴代の座主の折り目正しい一つの祈りの中に、畏れ多いという気持ちを込めて守り伝えられているものと思うのである。

このような流れの中で、私たちは現在の文化財を伝承していく。その元は聖宝理源大師、そして醍醐天皇の祈りによって築かれた3つの祈り、薬師信仰、観音信仰、五大力信仰がもたらしたものである。特にその中で、紙の文化の伝承は僧侶を中心に生まれ、祈りによって伝承されてきた文化である。醍醐寺は「祈りの中の伝承」、そして「生かされてこそ文化財」ということを中心としながら、伝承してきた文化財の社会貢献、ひいては学会を通しての社会貢献に今後門戸を開いていかなければならない。その準備は整っている。今回、第1函より558函まで69,378点が「醍醐寺文書聖教」として「国宝」に指定する旨答申された。これをいつ社会に明らかにしていくか、それが醍醐寺に課せられた今後の大きな課題である。文化財研究所の諸先生と十二分に練りながら、この問いかけに応えていきたい。

平成25年2月27日

醍醐寺百三世 仲田順和

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