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菩提の世界:醍醐寺芸術珍宝展-中国各メディアの反響-

※百度百科(中国語)に掲載された記事の日本語訳です。
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評論:醍醐寺文化財が中国に「里帰り」

山水屏風
『山水屏風』(鎌倉時代・醍醐寺蔵)

「日本醍醐寺芸術珍宝展」は、千年以上の歴史を誇る日本の寺院の文化財が海を越えて中国にやってきた展覧会であり、過去にもほとんど前例を見ないものである。東京国立博物館元副館長・西岡康弘氏は、醍醐寺の文化財を中国で展示することは、言うならば里帰りであり、日本文化のルーツは中国にあると語る。『芸術評論』は今回の展覧会とゆかりの深い上海博物館元副館長・陳克倫氏、上海博物館現副館長・李仲謀氏、および上海博物館青銅研究部・師若予氏への独占取材を行った。

 2016年5月11日に上海博物館で開幕した「醍醐寺芸術珍宝展」は、開催の構想から最終的に結実し、正式に開催の日を迎えるまでに5年の歳月を要した。5年という期間はまったく珍しい長さではない。というのも、展覧会を開催するためには一般的に下準備に少なくとも数年、長ければ10年以上かかる場合もあるのである。5年はむしろ異例なスピードである。過去にそのような慣例もなければ先例も少ないので、千年以上の歴史をもつ外国の寺院文化財を国境を越えて運ぶために、準備から実現までには数えきれない困難を乗り越えなければならなかった。

 当時の上海博物館副館長・陳克倫氏は、2011年に来日した際、醍醐寺の文化財が過去に東京国立博物館の西岡康弘副館長(現在は退職)の尽力の下、ドイツで公開されたことがあるという情報を得た。陳氏は「醍醐寺の文化財は非常に歴史的価値が高く、そのうえ、一部の文化財はきわめて古い歴史を誇ります。当時ドイツで開かれた展覧会は大成功を収めました。我々は西岡副館長と20~30年もの交流がある旧知の友でした。そこで、西岡副館長のお力添えで醍醐寺の文化財を中国に招き、展覧会を開催することはできないかという思いが芽生えたのです」と語った。

 それだけではない。より直接的なきっかけとなったのは「醍醐寺と中国の関係」である。日本京都の醍醐寺と中国のつながりは深く、その歴史は唐朝に遡る。

 唐代玄宗帝の時代に、「開元三大士」と称される3人のインド僧—金剛智、善無畏、不空が、相次いで唐に渡り、「純密」と呼ばれる密教宗派を正式に中国に伝えた。そして、長安青龍寺の恵果がまず不空に師事して金剛界の密法を、さらに善無畏の弟子である玄超から胎蔵界の密法を学び、金剛界と胎蔵界の両派を統合し、「金胎不二」という思想を確立した。西暦804年、恵果は「金胎不二」の思想を、長安へ仏教を学びに来ていた日本人僧侶空海に伝授した。空海は帰国後に日本真言宗を開き、京都東寺を総本山とし、その名前からとって「東密」と称した。

 醍醐寺の開祖・理源大師聖宝は、空海の弟子として真言宗の衣鉢を継ぎ、日本の貞観16年(西暦874年)、京都南東部の笠取山山頂に精舎を建立し、准胝観音像と如意輪観音像を祭った。寺院は醍醐と名付けられ、それに伴い、笠取山も醍醐山と呼ばれるようになった。のちに醍醐・朱雀・村上三帝が信仰を寄せたことにより、醍醐寺には次々に伽藍が建立され、現在の規模に至った。

 つまり、日本の真言宗は中国唐代の密教が伝播したものであり、西安の青龍寺が醍醐寺の根源なのである。真言宗の起源である中国では、唐代武宗帝による歴史的な廃仏運動の影響で、密教は中国国内においてはほぼ断絶したこととなったが、日本にはしっかりと根付き、今日まで受け継がれている。

 また、醍醐寺は時代を超えて受け継がれてきた「木」と「紙」の文化の宝庫として、6万9千点以上の国宝と、6,500点以上の重要文化財を収蔵し、その他未指定の仏像や絵画に至っては約15万点にのぼる。それら仏教文化財の多くが、唐宋芸術の雰囲気を色濃く残している。密教に関連する文化財の多くは、空海が唐朝から持ち帰った様式であると言われ、のちに「弘法大師様式」と呼ばれるようになった。たとえば絵画の多くには、明らかに唐宋期の仏教画の影響を受けているようすが見受けられる。また、仏像にも、唐代の長安の密教によくある様式が見て取れる。それでいて日本の仏像ならではの味わいも体現されており、中国の仏教美術が内包する雰囲気とはまた一味ちがう魅力がある。

 このように日本の醍醐寺と中国の間には密接な関係があったことから、西岡康弘氏と陳克倫氏は全力を尽くしてこの展覧会を成功させたいと考えていた。陳氏は、「西岡副館長はこんなふうにも仰っています。退職後、やりたいことが三つあるそうです。そのうちの一つが中国での醍醐寺展を協力することなのです。この願いの根底にあるのは中国に何か恩返しをしたいという思いで、なぜなら日本文化の根底には中国があるからです。しかし、宗教界でこのような展覧会を開くというのは決して一筋縄でいくものではなく、長期にわたる準備が必要です。ましてや寺社仏閣の文化財を国外に輸送して展示するなど、その難しさは言うまでもありません。寺社仏閣は博物館でも美術館でもありませんから、博物館間のように直接協定を結んで展覧会を企画するようなことはできないのです」と語った。三年前、陳氏は別件で日本を再訪した際、西岡副館長の提案で、彼の付き添いのもと京都醍醐寺へ赴いた。そして座主(僧侶の長)に謁見し、上海博物館の状況を紹介したのである。陳氏の語るところによると、醍醐寺座主はこの展覧会に大変興味を持ったという。そもそも醍醐寺のルーツは西安にあり、西安の青龍寺(元の青龍寺はすでに廃毀された)は醍醐寺の根源であると言える。そのため、座主は上海博物館での展示の後、西安でも是非展示することができたらと思い、上海博物館から西安の博物館に連絡をとることを望んだ。陳氏によると、醍醐寺の座主は、この展覧会を一種の「里帰り」ととらえているという。これにより、展覧会は上海博物館と陝西歴史博物館で順番に開催されることになった。

 展覧会開催のための事務的な調整が進んでいくにつれ、昨年9月初旬、上海博物館副館長・李仲謀氏の指揮の下、担当者5名が現地考察として日本京都の醍醐寺を訪れ、文化財を選定し、展示リストを検討した。醍醐寺に納められた膨大な寺宝の数々に、一行は皆強い感銘を受けた。醍醐寺展はかつて日本の東京国立博物館と奈良国立博物館でも行われており、過去に一度だけ海を越えて展示されたのがドイツであった。李氏は、「我々はこれら過去3回の展示会の実績を足がかりとして、中国の状況に合わせて展示品を一部増補し、最終的に現在の構成にまで持っていきました。展示は大きく分けて三部構成となっています。第一部は醍醐寺のルーツ、第二部は醍醐寺の仏教芸術の展示、つまり醍醐寺の「すがた」です。そして第三部は「風雅醍醐」と題して、醍醐寺にまつわる安土桃山時代から江戸時代にかけての日本の代表的な芸術作品を展示しています」と語った。

 この展覧会を開催するにあたり、何より難しかったのは展示品の選定作業であったと李氏は吐露する。「醍醐寺の文化財は、国宝と重要文化財の割合が非常に高いため、醍醐寺収蔵展としての全体的な体裁をととのえるには、ある程度国宝と重要文化財が揃わなければなりません。しかし日本側の規制はきわめて厳しく、一定のラインを超えると文化庁の認可を取得する必要が生じ、非常に難易度の高い作業となります。それだけではなく、繊細で破損しやすい刺繍・和紙絵画・木彫刻などの文化財には厳格な展示規定があり、展示内容を調整したり変更を加えたりする手続きは複雑を極めます」文化庁との度重なる協議の末、文化財の輸送点数の上限を緩和する許可を得ることに成功した。上海・西安両博物館に展示する全文化財のうち、国宝および重要文化財の占める点数は50%にのぼり、日本側が本来定めていた上限を突破したのである。

 醍醐寺の発展の歴史を振り返ると、日本では明治時代にも「廃仏毀釈」と呼ばれる運動が起こり、京都と奈良を中心とする多くの寺院は、財源を確保するため、仏像や什物の渡譲を余儀なくされた。文化遺産が大量に海外へ流出したこの時期、醍醐寺は寺に伝わるすべての宝物を完璧に継承・保護し、紙一枚さえも流出させなかったと言われている。かくして、醍醐寺の文化財はこの難局を乗り越えることができた。

 上海博物館で開催されている、この醍醐寺の秘宝の宴において、日中両国が仏教・芸術・文化の各方面において深めて来た交流を目の当たりにする。さらに、この展示を通して日本に学び、いかに先達が残した文化遺産を守りながら後世へ伝えていくかを胸に問わねばなるまい。本展覧会に関して、『東方早報・芸術評論』が本展覧会キュレーターの中国側代表を務める上海博物館青銅研究部・師若予氏に独占取材した。