和暦 | 西暦 | 月 | 事項 | 賢俊年齢 | 尊氏年齢 | |
---|---|---|---|---|---|---|
正安元年 | 1299 | 賢俊、日野俊光の息として生まれる(「五八代記)。 | 1才 | |||
嘉元3年 | 1305 | 7月カ | 尊氏、足利貞氏の息として生まれる。 | 7才 | 1才 | |
元応2年 | 1320 | 12月 | 賢俊、入壇(「五八代記」)。 | 22才 | 16才 | |
正慶2年 | 元弘3年 | 1333 | 1月 | 賢俊、師賢助より三宝院等を譲与される(「五八代記」)。 | 35才 | 29才 |
5月 | 尊氏、幕府軍を率いて上洛するが、その途上の篠村八幡宮において叛旗を翻し、六波羅探題を滅亡させる。 | |||||
建武2年 | 1335 | 10月 | 尊氏、建武の新制に叛意を表す。 | 37才 | 31才 | |
建武3年 | 延元元年 | 1336 | 2月 | 尊氏、九州に敗走。その途中、賢俊が光厳上皇の院宣をもたらす(梅松論)。 | 38才 | 32才 |
6月 | 賢俊、醍醐寺座主に補任される(「座主次第」「五八代記」)。 | |||||
12月 | 賢俊、東寺長者に補任される(「五八代記」「東寺長者補任」)。 | |||||
建武5年 | 延元3年 | 1338 | 4月 | 賢俊、将軍の護持僧に任じられる(「五八代記」)。 | 40才 | 34才 |
観応2年 | 正平6年 | 1351 | 1月 | 尊氏、直義と対立し、京都を追われる。賢俊、尊氏の軍に供奉する(史料2)。 | 53才 | 47才 |
文和2年 | 正平8年 | 1353 | 8月 | 賢俊、光厳上皇院宣により、有力院家(報恩院)の管領が認められる(「醍」23函23号2番)。 | 55才 | 49才 |
延文2年 | 正平12年 | 1357 | 2月 | 尊氏の慎歳に当たるため、賢俊、石清水八幡宮の宝前において願文を奉る(「醍」21函58号)。 | 58才 | 53才 |
閏7月 | 賢俊、入滅(「園太暦」)。 | |||||
8月 | 尊氏、賢俊の四十九日仏事のために理趣経を書写する(史料4)。 |
〔注〕 和暦の前者は北朝、後者は南朝年号を表す。