和暦 | 西暦 | 月 | 事項 | |
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正和年間頃 | 1312~17 | 実助、後宇多法皇から灌頂を受ける(後宇多法皇御手印御遺告)。 | ||
嘉暦2年 | 1330 | 6月 | 文観、六月頃より中宮の御産と称して、幕府調伏の祈祷を行う(太平記)。 | |
建武元年 | 1334 | 文観、醍醐寺座主に任じられる(新要録)。 | ||
建武3年 | 延元元年 | 1336 | 6月 | 賢俊、醍醐寺座主に補任(新要録)。隆舜、賢俊とともに東寺において北朝のための祈祷を行う。 |
7月 | 隆舜、賢俊より報恩院等の安堵状を与えられる(史料1)。 | |||
建武4年 | 延元2年 | 1337 | 隆舜、北朝方に申状を進上し、都鄙寺社の執務職を請う(史料2)。 | |
7月 | 隆舜、伊豆走湯山密厳院別当職に補任され、翌年五月以降住持。 | |||
貞和2年 | 正平元年 | 1346 | 隆舜、醍醐寺に帰寺。 | |
観応2年 | 正平6年 | 1350 | 12月 | 十一月~翌年二月正平の一統。隆舜、実助を通じて南朝に報恩院等の安堵の綸旨を求める(史料3)。 |
文和元年 | 正平7年 | 1351 | 2月 | 隆舜、後村上天皇綸旨により、釈迦院を安堵される(史料4)。 |
文和2年 | 正平8年 | 1353 | 正月 | 隆舜、正月醍醐寺において入滅(三宝院伝法潅頂私記、158函18号)。 |
3月 | 実助、高野山において入滅(新要録)。 | |||
延文2年 | 正平12年 | 1357 | 閏7月 | 賢俊、入滅(「園太暦)。 |
10月 | 文観、河内国金剛寺において入滅(金剛寺聖教奥書集)。 |
〔注〕 和暦の前者は北朝、後者は南朝年号を表す。