特集 4 南北朝の動乱と醍醐寺  藤井雅子

特集4 南北朝の動乱と醍醐寺

南北朝の動乱は、天皇、武家、貴族を巻き込み、同族間を二分し対立させる状況を生み出しました。醍醐寺僧も南朝方と北朝方に分かれましたが、南朝方としては後醍醐天皇の寵臣として有名な文観弘真や金剛王院実助、北朝方には〔三 足利尊氏と三宝院賢俊〕で取り上げた三宝院賢俊がいました。

文観〔弘安元年(1278)~延文二年・正平十二年(1357)〕は、元徳二年(1330)中宮御産の祈祷と称して幕府調伏の祈祷を行い、硫黄島に流されました(「太平記」)。文観はもともとは律僧でしたが、後に醍醐寺報恩院道順・道祐の弟子となり、建武元年(1334)には醍醐寺座主に任じられました(「醍醐寺新要録」)。しかし南朝の没落とともに醍醐寺を離れて後醍醐天皇に従軍し、最後は河内国金剛寺で入滅しました(金剛寺聖教奥書集)。実助〔永仁元年(1293)~文和二・正平八年(1353)〕は、後醍醐天皇の寵臣北畠親房の舎弟でしたが、後醍醐天皇の父である後宇多法皇の弟子でもありました(「後宇多法皇御手印御遺告」大覚寺所蔵)。そうした南朝との関係を持っていたことにより、後に取り上げるように、ある醍醐寺僧が南朝に接近する際の仲介役を果たしました。しかしその後、醍醐寺を離れて高野山に行き、文和二年(1353)大和で入滅したようです(「醍醐寺新要録」)。賢俊については、すでに述べました通り、文観の没落以後、尊氏を後見として醍醐寺座主に補任されて、醍醐寺内を統括する立場を得ました。

そうした中で隆舜という僧侶は、両方の朝廷に接近するという動きをみせています。動乱以前の鎌倉時代、隆舜は関東に下り、鎌倉幕府のために祈祷を行っていましたが、元亨四年(1324)に醍醐寺に戻りました(「醍醐寺報恩院諸司等訴状」4函66号)。隆舜〔弘安三年(1280)~文和二・正平八年(1353)〕は北朝方の公卿四条隆蔭の息で、醍醐寺報恩院院主隆勝の弟子でした。建武三年(1336)六月、尊氏が東寺を御所とした際、隆舜は賢俊とともに参籠し、北朝のために祈祷を行っています(「僧正隆舜申状案」11函23号)。その功績により隆舜は翌月、賢俊から報恩院や釈迦院の安堵状を与えられています(史料1、座主賢俊袖判隆舜管領諸坊安堵状、92函23号)。しかし南北朝の動乱により隆舜は行き場を失い、建武四年(1337)北朝方に次のような申状を進上しました(史料2、僧正隆舜申状案、11函23号)。

南北朝の動乱と醍醐寺

目安として訴える状、隆舜が都鄙(都と田舎)の寺社等の執務職の欠に任じられることを所望すること。 右については、去る元弘年間以来度々愚書を進上しましたが、未だにご命令に預かっておりません。ここに適所として相承しました報恩院堂宇・僧坊・経蔵以下は、去る年七月に火災にあったため、空しくも礎石を残すばかりです。また釈迦院(または水本坊とも)の坊舎は同月廿五日に朝敵人等を追い捕らえる際に破却されましたため、未だ修理もできておりません。その上、関東犬懸谷の坊舎・聖教・本尊等も、去年四月に奥州国司北畠顕家が乱入した時に、若御前(義良親王、後の後村上天皇)の御座所であるといって、凶徒が押し寄せてきて、悉く坊舎等を焼き払い、寺の坊人等まで搦め捕ってしまいました。そのため私の都鄙いずれの住所やすべての坊人等の困窮はひどい状態です。こうした状況の中、寺家が京都にあるので、居住する場もなく、様々な狼藉への悲嘆は言葉に尽くすことができません。このようなことであるのでお察しくださり、あなた様のご配慮を仰ぐところでございます。

この中で隆舜は、動乱の影響を受けて、報恩院・釈迦院、関東犬懸谷坊といった自身が管理する院家や坊人を失い、「居住之在所」さえ無いと訴えて、新たな「都鄙」の寺社の「執務職」に任じられることを求めています。これにより動乱が全国の寺社に大きな被害をもたらしたことが知られると同時に、それを拠り所にしていた僧侶たちもまた弊害を蒙ったことがわかります。この申状の効果によるものか、隆舜は同年七月、尊氏御判御教書により伊豆走湯山密厳院別当職に補任され(醍醐寺報恩院法流并院家相承重書集草稿、118 函10号)、しばらく同院に住持しました。しかし貞和二年(1346)隆舜は醍醐寺に戻り、報恩院・釈迦院の再興を目指したようです(「伊豆山密厳院僧正上洛人足伝馬書、18函187号)。

政情が定まらない中で、正平六年(観応二年、1350)十二月、隆舜は金剛王院実助を通じて、南朝による報恩院・釈迦院安堵の斡旋を求めました(史料3、僧正隆舜書状案、10函27号)。実助はその旨を舎兄北畠親房に伝えて後村上天皇への取次をたのみ、親房との間に数通の書状のやりとりを行いました(北畠親房書状写、10函23号)。こうした隆舜の行動は、正平の一統という、正平六年十月末から翌年閏二月まで一時的に南朝が北朝を廃して京都を制圧したことに基づくと考えられ、そのために勢力を持つ南朝に急接近したのでしょう。結局、隆舜は後村上天皇綸旨により釈迦院を安堵されたものの(史料4、後村上天皇綸旨、20函10号1番)、正平の一統は長続きしなかったため、その効力は小さかったとみられます。

南北朝の動乱の中で醍醐寺には、最後まで南朝に与した文観・実助、尊氏に忠節を尽くし従軍まで果たした賢俊、そして状況に応じて両朝へ接近した隆舜の三様の密教僧が存在しました。これまで文観や賢俊の一途で、僧としては異例ともいえる忠誠心が注目されてきましたが、隆舜はその時々の時勢を見すえて、ただひたすらに院家や法流を守り興隆することを考えて行動したにちがいありません。そのように考えると、隆舜は密教僧として決して恥じることの無い選択を行ったといえるのではないでしょうか。

-参考文献-

  • 中島俊司氏『醍醐寺略史』、醍醐寺寺務所、昭和五年
  • 永村眞氏「醍醐寺報恩院と走湯山密厳院」(『静岡県史研究』六号、平成二年)
  • 拙稿「南北朝の動乱と醍醐寺ー主に報恩院隆舜を通してー」(永村眞編『醍醐寺の歴史と文化財』勉誠出版、平成二十三年)

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