特集 5 室町将軍と満済准后  藤井雅子

特集5 室町将軍と満済准后

満済准后〔史料1、永和四年(1378)~永享七年(1435)〕は、応永二年(1395)室町幕府三代将軍義満の猶子として三宝院門跡に入室しました(法身院准后始終記、174函15号)。これは満済の養父で実兄二条師冬の妻が義満の室日野業子の許に仕えていた縁によると考えられています(森茂暁氏『満済』)。義満の没後、満済は四代将軍義持から「鹿苑院殿」(義満)の「御衣皆具、同伽梨一頂〈五条〉」(御衣一式と五条袈裟一頂)を贈られていますので(史料2、1函6号20番)、義満とは昵懇の間柄であったことがうかがわれます。

満済は四代義持・六代義教期において、武家護持僧として将軍を護持する祈祷を行い、その中でも護持僧全体を統括する「管領」(「護持管領」)に任命されましたが、その補任は将軍義教の自筆書状によって直々に行われました(史料3、1函8号4番)。

護持管領

護持のことについては、管領として修法をお勤めなさいますように。恐れながら謹んで申し上げます。

なお満済が「護持管領」として果たした役割ですが、例えば五壇法(不動・降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉の五代明王を本尊として五壇を組み、五人の阿闍梨によって同時に勤修される修法)勤修の場合、満済はまず護持僧の中から、阿闍梨候補者六人の名を記した「交名(きょうみょう)」を将軍に注進し、将軍はその中から五人を選び、五壇法の開白・結願(開始・終了)の日付を記して満済に返却します。満済はそれら五人に書状を遣わし、五壇法への出仕の旨を伝え、その後、五人から満済の許に出仕の有無が返答され、修法の勤修に至ります(「満済准后日記」応永卅四年六月五日~廿一日条)。このように満済は将軍と直接連絡をとりながら、武家護持の修法を調整する立場にあったことがわかります。

また満済は密教僧であるにもかかわらず、義持・義教期の幕政に深く関与しました。その中で最も有名なのが、応永三十五年(1428)正月、義持が将軍後継者を決めずに危篤となった際における満済の活躍です。正月七日、義持は「御座下御雑熱」(尻のできもの)を「カキヤフラ」れて「御傷」になり、それが原因で同十八日に亡くなりますが、その前日の十七日、満済は管領細川満ら幕府要人から「御相続御仁躰」(次期将軍)について相談を受けています。義持には五代将軍となった義量が早世した後、実子がいなかったこともあり、自ら次期将軍を指名することをせず、管領らの「寄合」(話し合い)によって次期将軍を決定することになったのですが、協議では決まらず、満済に意見が求められたのです。そこで満済は次のように提案を行います(史料4、「満済准后日記」応永卅五年正月十七日条)。

満済准后日記

幸いに将軍にはご兄弟もいらっしゃいますので、その中の方から御器用(才能)を見極めなさり、将軍がご命令になるべきだと存じます。それでも相応しい方が決められないならば、石清水八幡宮の御神前において、ご兄弟四人のお名前を記した御鬮をお引きになられて決定されるのはいかがでしょうかと申し入れましたところ、(将軍は)御鬮にしようと仰せられました。

そして満済は管領から頼まれて鬮を作成しています。管領はその日の夜に早速神前において鬮を引きましたが、鬮を開封したのは、その翌日義持が亡くなった後のことでした。鬮の結果、将軍は青蓮院門跡であった義円(後の義教)に決定しましたが、将軍となった義教はこうした縁もあって、満済を信任し、日明貿易などの重要な政策においてしばしば意見を求めました(「満済准后日記」永享六年六月十五日条)。

ご存じの通り、義教は「万人恐怖」の政治を行い(「看聞御記」永享七年二月八日条)、多くの人々を処罰したことで有名ですが(「薩戒記」永享六年六月)、満済に対しては親愛の情をもって接していたようです。永享七年(1435)二月、満済が体調を崩し醍醐寺で養生していた際、義教はしばしば医師を下してその様子を気遣っています(「満済」永享七年二月三日・七日・九日・十九日条等)。廿三日には義教から越前より取り寄せた「茄子の付物」(漬物)が送られ、満済は日記に「上意忝く、真実々々知らずに手足舞踏す、ただ落涙千万行ばかり也」(将軍のご意思は有り難いものである、本当に知らず知らずに手足が踊り出し、ただ涙が流れるばかりである)と記しています。そして永享七年六月の満済の入滅に際し、義教が「ご周章」(あわてふためくこと)とされることからも、義教にとって満済の存在が如何に大きなものであったかがうかがわれます(「看聞日記」永享七年六月十三日条)。このように満済は世俗社会において広く「天下の義者」(己を知り、道理をわきまえた人)「当時無双の重人」(現在において無双の重要な人物)と好意的に評価される人柄だったようです(「看聞御記」「師郷記」永享七年六月十三日条)。

-参考文献-

  • 中島俊司氏『醍醐寺略史』、醍醐寺寺務所、1930年
  • 森茂暁氏『満済-天下の義者、公方ことに御周章-』、ミネルヴァ書房、2004年
  • 今谷明氏『籤引き将軍 足利義教』、講談社、2003年
  • 上野進氏「室町幕府の顕密寺院政策」(『仏教史学研究』43-1、2000年

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