慶長三年(1598)三月十五日、豊臣秀吉(史料1)は醍醐寺において花見を行いました。その様子について醍醐寺三宝院門跡義演准后(史料2)は日記に次のように記しています(「義演准后日記」以下「義」、同日条)。
今日太閤秀吉が(醍醐寺に)お渡りになられた。(淀公や北政所を始めとする)「女中」らもおのおのお成りになり、終日桜を御覧になられた。路次や茶屋などの贅を尽くしたあり様は、言葉では言い尽くしがたいほどである。何の問題もなく、無事に(太閤たちは)お帰りになられた。
そして義演はこの花見を「一寺の大慶」「一身の満足」であったと述べています。この時に秀吉や秀頼、前田利家らが詠んだ和歌の短冊が今も醍醐寺に残されています(史料3「醍醐花見短籍」)。
「醍醐の花見」に先立つ前年三月、秀吉は俄に醍醐寺を訪れ、桜を観賞しています(「義」慶長二年三月八日条)。その時の美しさが忘れられなかったのか、翌年二月、秀吉は醍醐寺に花見の下見に訪れ、「二王門」の修理や「山上やり山」に「御殿数宇」の建築を命じています(「義」慶長三年二月九日条)。そして「桜ノ馬場」から「やり山」に続く「三百五十間」(約637メートル)の左右に「七百本」の桜が植えられましたが、これらの桜は畿内や吉野の桜を移植したものでした(「義」同年二月十三日条)。今も春には醍醐寺の総門から仁王門に続く道に桜が見事に咲きますが(写真)、この光景こそ秀吉が見たものにちがいありません。秀吉はこの花見以前の慶長二年(1597)、五重塔の修理に着手して以降、金堂、金剛輪院(現在の三宝院門跡)などの醍醐寺伽藍の再興を行っていますが、花見の直前には異例ともいえる早さで伽藍の修理や堂宇の移築、秀吉の邸宅聚楽第にあった名石「藤戸石」を金剛輪院の庭園に移すことを指示しています(「義」同年二月十六日~廿九日条、「醍醐寺新要録」金剛輪院篇)。このように秀吉は応仁・文明の乱で荒廃していた醍醐寺を再興した大施主、義演は三宝院門跡・座主として、秀吉の後援をうけ、伽藍の復興を行った中興の祖とされました。そして醍醐寺の復興事業は秀吉の没後も、その息秀頼によって継承され、山上山下の多くの堂宇が整備されることになったのです。
では何故、秀吉は醍醐寺や義演に対して手厚い後援を行ったのでしょうか。その理由はいくつかあるでしょうが、その根元は天正十三年(1585)の秀吉の関白就任にあると思われます。同年七月十一日、秀吉は従一位関白に叙されましたが、この前日、義演の実兄二条昭実は従一位関白に任じられ、翌日つまり秀吉の関白就任と入れ替わりに辞任しています。実は義演の父二条晴良もかつて関白の座にあり、二条家は代々摂政関白を輩出する家柄でした。そうした事情の中で秀吉が関白を所望したために、このような早急な人事が行われたのではないでしょうか。そして同月十二日、義演は准三后に宣下されました(史料4「正親町天皇宣旨」178函74号)。准三后とは、准三宮・准后ともいい、太皇太后・皇太后・皇后の三后に準じて、年官・年爵・封戸等を賜い、その待遇を受けた者をいいますが、時代とともに名目的な地位となりました。この宣下は本来公卿たちの会議で決定されるものであるにも関わらず、秀吉の「申沙汰」により俄に勅許がなされたようです(史料4 包紙裏書)。つまり実兄の関白辞任の代償として、秀吉の強い働きかけにより義演が准三后に補任され、以後、両者は祈祷の勤修を通じてより密接に結びついたと考えられます。
天正廿年(1592)六月、秀吉は朝鮮出兵のため名護屋に在陣していましたが、その護持の祈祷として大阿闍梨義演が東寺講堂において仁王経法を勤修しました(史料5「暦応五年仁王経法雑記」173函1号)。また慶長二年(1597)三月に秀吉を大壇那として行われた高野山大塔落慶供養においても、義演が導師を勤めています(「御拝堂所作人交名」181函29号)。
さて天正十年(1582)から始まった太閤検地により、醍醐寺も「当寺山上・山下の寺領、既に相果て了ぬ」という困窮した状況になりました。そのことを義演が秀吉側に訴えたところ、所司代前田玄以の尽力もあって、醍醐寺に対して「替地」が与えられ「門跡候人ならびに院家・衆徒、次ニハ山上下僧ニ至るマテ、関白朱印を拝領」したとされています。このように秀吉は醍醐寺の危機にあたり、常に後援する姿勢をとっていたことが知られます(史料6「准后義演願文」奥書、178函17号)。
醍醐の花見が行われた五ヶ月後の慶長三年七月に秀吉は病に倒れ、義演は北政所より「御祈祷料黄金五十両」を賜って、醍醐寺金剛輪院において病気平癒の北斗法を行いました(「秀吉不例北斗法次第」171函91号)。翌月十六日にも義演は伏見城において不動護摩を勤修しましたが(「義」同日条)、二日後の八月十八日に秀吉は亡くなりました。しかし秀吉の死は秘匿され、義演の許に秀吉の死がもたらされたのは十二月十八日になってからでした。義演は、秀吉の死に接したこの年の晦日、次のように振り返っています(「義」慶長三年十二月晦日条)。
御殿が数宇建立され、例年の慶事に勝り、満足なことは言葉では尽くしがたい。感無量であり、上古に恥じないものであろう。これは偏に太閤秀吉の有り難い御恩によるものである。とくに領地まで拝領した。これらは寺内の思いに太閤がこたえたものであり、弘法大師空海のご加護であることを肝に銘じておきたい。
-参考文献-
- 中島俊司氏『醍醐寺略史』、醍醐寺寺務所、昭和五年
- 図録『祈りと美の伝承 醍醐寺展-秀吉・醍醐の花見四〇〇年-』日本経済新聞社、平成十年
- 図録『世界遺産 醍醐寺展-信仰と美の至宝-』 日本経済新聞社、平成十三年