多くの天皇が仏教に帰依し、醍醐寺の創始・興隆に力を貸してきたことは、今更いうまでもありません。しかし天皇だった人物が自ら密教の阿闍梨となって修行し、祈祷を行い、多くの弟子を育てた事例は二例しかありません。それは宇多天皇と後宇多天皇です。宇多天皇(867~931)については「理源大師聖宝と醍醐寺」で触れたように、延喜元年(901)十二月、東寺において大阿闍梨仁和寺益信から伝法灌頂をうけ、その後、仁和寺御室を拠点として修行を行いました。後宇多天皇(1267~1324)は、その諡名(おくりな)からも知られるように、宇多天皇を深く崇敬して、密教に傾倒し、晩年には大覚寺に住持しました。宇多天皇が醍醐寺の開祖である聖宝と交わりを結んだように、実は後宇多天皇も醍醐寺や醍醐寺僧と密接な関わりを持ちました。
後宇多天皇は、文永四年(1267)に亀山天皇の皇子として生まれ、八歳で天皇に即位し、二十歳で退位しました。当時は両統迭立とよばれる、皇統が大覚寺統と持明院統の二つに分裂し、皇位が交互に継承されるという状態にありました。そして後宇多天皇は幼少時から、密教に深い関心を持っていたことが、自身が記した「後宇多法皇御手印御遺告」(大覚寺所蔵)に記されています。このように天皇家にとって不安定な時期に皇位に就いた後宇多天皇が将来に不安を抱き、密教に心を寄せ、自身も密教僧として生きることに成ったのは自然の成り行きだったのかもしれません。
後宇多上皇は退位後の徳治二年(1307)七月、皇后の遊義門院が亡くなったことを悲しみ、東寺において出家し、翌年正月には、東寺において仁和寺真光院禅助から広沢流の伝法灌頂を受け、「金剛性」という法名を与えられました。なおこの灌頂は宇多天皇の先例を準えたものでした。しかしこれに先立つ徳治二年四月、後宇多上皇は醍醐寺報恩院憲淳から伝法灌頂を受けており、醍醐寺にはその時の印信の案文が残されています(史料1)。印信とは、師が弟子に対して法を与えたことを証明するものです。しかしこの時、後宇多上皇は未だ出家をしておらず、俗人でした。先述しました通り、後宇多上皇が出家したのは、この三ヶ月後の七月です。本来、伝法灌頂は一人前の密教行者となるために行う儀式ですので、それが出家前に行われたことは、異例でした。そのために醍醐寺の中には密かに疑問を唱える僧侶もいたようです。その一人がこの灌頂を授けた憲淳の弟子である隆勝でした。隆勝はこの灌頂が「 事儀率爾 」(早急すぎる)と述べたのです(11函6号1番)。後宇多上皇が世俗の権力者であったこと、そして密教への思いがあまりに強かった故に、このように「率爾」な灌頂を実現させてしまったのかもしれません。
その後、後宇多上皇は出家を果たして法皇となりました。そして徳治三年(1307)二月以降三度にわたり、憲淳から三宝院流の秘法相承を懇望する書状を出しています。それが国宝「後宇多法皇宸筆当流紹隆教誡」(醍醐寺所蔵)とよばれる、後宇多法皇が憲淳に宛てた三通の書状の総称で、現在はこれらが巻子装一巻に装丁されています。その一通目の中で後宇多法皇は、病気となった憲淳に対して次のように述べています(史料2)。
もしなおあなたの病気が回復しなければ、法流を相承したいという考えを持っていますので、始終にわたり細々と尋ねに伺いたいと思います。そこでこのように手紙を差し上げるところです。三宝院流の嫡流を興隆したいという志を深く持っているのは、因縁によるものです。すでに(禅助から広沢流の)秘密の秘儀を極めております。附法の正統に列することができれば、必ずや真言密教の法流を一揆する(一つにまとめる)ことができるのではないでしょうか。この私の思いは偽りのないところですので、仏の正しい教えを久しくこの世に広める礎となりましょう。
後宇多法皇は三宝院流の「正流」(嫡流)の相承が許可されたならば、真言密教における二大法流小野流と広沢流の一揆を実現でき、「令法久住」の基になると強く信じていました。これに対して憲淳からは、「密教行者として相応しい立場を守らなければならない」などの条件が提示されました(3函47号2番・4番)。後宇多法皇は二通目の手紙でそれらの条件を遵守し、さらに醍醐寺報恩院に「住寺」することを約束しました(史料3)。そして三通目で、「始終偏に当流紹隆の謀いを廻らすものなり」と述べて、三宝院流の興隆に努めることを誓っています(史料4)。この三通の文書から、後宇多法皇の密教への厚い思いを知ることができます。その意思を感じたからこそ、憲淳は後宇多法皇に三宝院流の「奥旨」の相承を許したと思われます。そして後宇多法皇は「法流之一揆」を実現することにより、弘法大師空海や宇多天皇の頃の真言密教の形を再現したいという大願を果たしたかったのだと考えられます。
後宇多法皇が自らの師として醍醐寺僧である憲淳を選んだ理由は、当寺、醍醐寺に真言密教の正流が相承されていたためであったといえます。そして現在に至るまで醍醐寺には、真言密教の二大法流の一つ小野流の筆頭的な法流とされる三宝院流が脈々と受け継がれているのです。
-参考文献-
- 辻善之助氏「密教興隆」(『日本仏教史』第三巻、岩波書店、昭和二十四年)
- 永村眞氏「寺院と天皇」(『講座 前近代の天皇』第三巻、青木書店、平成五年)
- 真木隆行氏「後宇多天皇の密教受法」(『古代中世の社会と国家』、清文堂、平成十年)
- 拙稿「後宇多法皇と醍醐寺」(『中世醍醐寺と真言密教』、勉誠出版、平成二十年)