満済は二条基冬の息として生まれ、応永二年(1395)十二月一日、義満の猶子として三宝院門跡に入室しましたが、その際、義満が同車したといいます(「法身院准后始終記」174函15号)。三宝院は平安院政期に草創された院家ですが、同院に相承された三宝院流は醍醐寺のみならず、真言宗における中核的な法流と認識されていたこともあり、三宝院院主はしばしば醍醐寺の長官である座主に任じられました。そして南北朝時代、尊氏の後見を受けた三宝院賢俊の存在によって、三宝院は室町幕府との関わりを強め、武家護持の中心的な役割を担うようになり、次第に三宝院門跡と呼ばれるようになりました。こうした三宝院の寺院社会内における立場や世俗社会との関わりを背景に、満済の三宝院への入室が決定したと考えられます。
満済は、入室後まもない応永二年十二月廿九日、座主に宣下されました(但し宣旨は翌年正月に宣下、史料1)。翌年九月には比叡山において受戒を遂げましたが、これは義満の受戒に扈従したついでであったとされています(「法身院准后始終記」)。同十月より満済は密教僧となるための「加行」(予備修行)を開始し、応永七年十二月、実済僧正より伝法灌頂(一人前の密教僧となることを許すための灌頂)を授けられました(史料2)。このように当初、満済は密教僧としての修行や灌頂を行う以前に、醍醐寺座主という重要な地位に就いたわけですが、その後の満済はその立場に相応しい密教僧となるために一心不乱に修行を行いました。満済の密教僧としての研鑽の様子は、国宝『醍醐寺文書聖教』の中に残される約九十点の満済自筆聖教からうかがうことができます。これらは満済が密教における秘法を師から伝授されるにあたり生まれたものですが、「駄都秘決」の奥書には、「応永卅二年十一月五日、金剛輪院西窓にて独り寒灯に挑み之を書写す、夜雨粛なるの条頗る感涙する者也、舎利神変、祖師の法験殊勝々々、座主前大僧正満済」と記され、満済が祖師に対する熱い思いを抱きながら、感慨深くこれらを作成したことがわかります(101函17号)。さらに満済は多くの聖教を被見して研鑽を続け、聖教の撰述を行いながら、武家護持の祈祷に励みました(「易産法次第」101函27号)。
一方で満済は後進の育成も行い、次期門跡義賢をはじめとする多くの弟子に対して付法を行い、法流の興隆に努めました(史料3)。永享六年(1434)三月、満済は義賢に対して置文を認めましたが、これは門跡を担う者として公家・武家の護持や、門跡を支える坊人との関わりを細かく指示したものでした(史料4)。まず冒頭には、公家・武家のために行う祈祷が掲げられ、これらの祈祷は門跡「自身」が行うべきで、「手代」(てがわり、代理の者)を用いるべきではないと記しています。次に門跡が所有する本尊・聖教、所領の維持においての門跡の心得を述べています。
一 本尊・仏具・聖教の事について、本尊一尊・仏具一種・聖教一帖たりとも他に散失することがあってはならない。
一 灌頂道具の事について、若し伝法の道具が失われたならば、伝法の軌則(聖教)も存在する意味はなくなる。伝法の軌則が失われたならば、法流もすぐに断絶してしまうであろう。法流が断絶したならば、国家護持の祈祷もまた断絶してしまうだろう、これらのことを代々の祖師の戒めにしたがって、物事の要物として大事になさるように。もしこれらに背くようなことがあれば、護法善神(梵天・帝釈天などの仏法を守護する善神)が怒りを現すであろう。もっとも慎むべきことである。
つまり門跡は、本尊・仏具・聖教・道具を相承して法流の伝持を果たすことにより、「国家護持」を実現することができると述べています。これらのことは、満済自身が公家・武家の祈祷を行う中で習得した事柄だったのにちがいありません。
さらに満済は坊人らの個々の評価や処遇について記していますが、そこには優秀な人材だけでなく、「器用」の無い者の評価も包み隠すことなく述べられており、「器用」の有無にかかわらず、門跡は坊人らを「扶持」し「憐愍」を懸けることが不可欠であると説いています。こうして門跡と坊人との間には「扶持」と「芳恩」という相互関係が成立していましたが、さらに受法という密教独自のつながりも存在していたことが、いっそう両者を強く結び付けていたようです。そして最後に満済は、「門跡の大小公事」については門跡一人で処理するのではなく、坊人に相談すべきであると申し置いています。このような記述から、満済が門跡に所属する坊人に対して暖かい態度をもって接し、門跡内を円滑にまとめることに気を配っていたことがうかがわれます。
以上から、満済は常に真摯な態度で修行を行う密教僧であり、醍醐寺および門跡組織の長官としても仰ぐべき人物であったことが知られます。
-参考文献-
- 図録『世界遺産 醍醐寺展 -信仰と美の至宝-』、日本経済新聞社、2001年
- 森茂暁氏『満済-天下の義者、公方ことに御周章-』、ミネルヴァ書房、2004年
- 藤井雅子「南北朝期における三宝院門跡の確立」(『中世醍醐寺と真言宗』、勉誠出版、2008年)