特集 7 理源大師聖宝と醍醐寺  藤井雅子

特集7 理源大師聖宝と醍醐寺

醍醐寺を開いた理源大師聖宝は〔史料1、天長九年(832)~延喜九年(909)〕、天長九年に天智天皇の子孫にあたる葛声王(かつなおう)の息として生まれ、幼名を恒蔭王(つねかげおう)といいました。貞和十四年(847)十六才の時、貞願寺真雅僧正の許で出家得度し、元興寺で三論宗、東大寺において法相宗・華厳宗を学びました。貞観十三年(871)四十才の時、真雅から無量寿法を伝授されてより、真言密教の修学につとめました(「醍醐寺根本僧正略伝」)。こうした聖宝の修学について、後世、鎌倉時代の東大寺の学僧凝然(ぎょうねん)は、「聖宝は三論宗を本宗として、法相・華厳・因明・倶舎・成実宗を兼学して、顕宗(顕教)の教えを詳しく考察し究め広げ、密教の真言の趣旨を研究した。これらを包括的に学んだ徳は、匹敵する者がいない」と評しました(「三国仏法伝通縁起」)。

聖宝は、空海が入唐の時、真言宗流布の勝地を求めて日本国に三古を擲った故事にならい、自分も勝地を得たいと祈願したところ、王城の辰巳(南東)に五色の雲がたなびくのを御覧になりました。その山頂に登ると、閼伽井の辺に白髪の老翁が水を飲み、「醍醐味かな」と言って、忽然と消えたと伝えられています(『醍醐雑事記』巻第一)。そこが現在の上醍醐である笠取山であり、貞観十六年(874)、聖宝はそこを勝地として草庵を造り、准胝・如意輪観音像の御衣木を加持し自らの手で諸尊を彫像したといわれています(史料2「醍醐山縁起草案」)。同十八年、准胝堂が完成しましたが、この時の供養を行ったのは、歌人として有名な遍照僧正でした。聖宝と遍照とは「知音(ちいん、友人)」であったとされ、またこの時、遍照は山上を見渡されて、「此山ハ仏法ハ久シカルベシ、但ヒン(貧)ニシテ、エモテアイマジキ也(この山に仏法は永く伝わるであろう。ただし財力が乏しく、存続は難しいのではないか)」と言ったとされています(「報物集」)。こうして醍醐寺が開かれ、元慶年中(877~885)、陽成天皇の御代に、准胝堂は御願所(天皇の願いを祈り実現するための寺院)になりました。

その後の聖宝は、真言密教の行者としてますます研鑽を積み、僧官や諸職を歴任しました。それは、遍照の危惧を現実のものとしないため、そして醍醐寺を興隆するためだったのではないでしょうか。元慶四年(880)聖宝は真然から胎蔵・金剛両部大法を学び、同八年、源仁から伝法灌頂(一人前の密教行者である阿闍梨位を授ける儀式)を授けられ、附法を受けました。寛平元年(889)には、天皇の命により貞願寺の座主に補任されました。貞願寺は清和天皇のために、外祖父である藤原良房が建立し、聖宝の師真雅を開基とした寺院です。この時の宇多天皇の勅には「真言密教を守る聖宝を座主とせずに誰を任命するであろうか」と記されており(「醍醐寺根本僧正略伝」)、真雅の弟子として、聖宝が如何に優れていたのかを知ることができます。さらに聖宝は寛平六年、権律師に任じられ、権法務(官僧らが集う僧綱所の長官)を兼ねました。同七年には東寺二長者に補任され、同九年には少僧都、延喜元年(901)正月には大僧都になりました(同上)。

そうした中で聖宝の名声を広め、天皇と接近するきっかけとなったのは、延喜元年(901)十二月、東寺において行われた宇多法皇の伝法灌頂でした。この時の大阿闍梨(灌頂を授ける僧侶)は、聖宝の法兄にあたる益信が勤めましたが、聖宝は嘆徳師(受者の徳を讃える表白を読み上げる役)として参加しました。さらに翌年二月に、宇多天皇が益信から灌頂印信(灌頂を受けた証書)を授けられた時にも、聖宝は表白師(儀式の趣旨を読み上げる役)を勤めています。延喜六年には、僧正、法務となり、東寺一長者(真言宗における長官)に就きました。なお聖宝が僧綱の一員として自署している文書が醍醐寺に残されています(史料3「僧綱牒」)。こうした天皇への貢献が実を結んだのでしょうか。延喜七年(907)、勅により醍醐寺は御願寺となりました。こうして醍醐寺は天皇を後見として、堂宇を増やし発展を遂げていくことになるのです。

しかしその後まもない延喜九年(909)、聖宝は普明寺で病に臥しました。この時、宇多法皇と陽成天皇が聖宝の許に行幸されたといわれています。死に先立ち、聖宝は弟子に醍醐寺を託す遺言を認めていました(史料4「理源大師処分状」)。

理源大師聖宝と醍醐寺

老僧寛蔵師は、その心根を知らず、ただ少ない功績によって、別当に任じられた。しかし今よくその節度を見ると、全く心ばえがよくない。よって今後は永久に別当や御願所の行事を勤めることを禁止する。但し醍醐寺・貞願寺の事については、延敒法師に処分をゆるす。

この中で聖宝は弟子延敒に醍醐寺を委ねたことがわかります。そして七月六日、七十八才で入滅しました。聖宝による真言密教の伝持や醍醐寺発展への思いは、その後も弟子たちに継承され、現代に至るまで大きな影響を与えています。

-参考文献-

  • 大隅和雄氏『聖宝理源大師』醍醐寺寺務所、1979年
  • 佐伯有清氏『聖宝』吉川弘文館、1991年
  • 永村眞氏「醍醐寺所蔵「醍醐山縁起草案」」(『醍醐寺文化財研究所研究紀要』第13号、1993年)
  • 図録『世界遺産 醍醐寺展-信仰と美の至宝-』総本山醍醐寺・日本経済新聞社編集、2001年

ページのTOPへ

Copyright © 2013 Daigoji Cultural assets Archives All Rights Reserved.