特集 10 醍醐寺報恩院と鎌倉幕府  藤井雅子

特集10 醍醐寺報恩院と鎌倉幕府

後宇多法皇が報恩院憲淳から三宝院流の「正流」を相承したことは、「後宇多法皇と醍醐寺」で述べた通りです。その後、徳治三年(1308)五月廿九日、憲淳は弟子の隆勝に対して二通の文書を作成しましたが、うち一通は隆勝が相続する本尊・道具等の譲状でした(史料1)

後宇多法皇が報恩院に御住持する事、報恩院憲淳の譲状の写し

「後宇多法皇が報恩院に御住持する事、報恩院憲淳の譲状の写し」
仁王経曼陀羅一鋪〈大僧正【(定海)】の図絵本、〉 転法輪筒一〈中安/後白河法皇御影〉 小壇起戒等一合 修法道具〈在関/東、〉已上は法皇の御住持があったとしても、隆勝法印に別に譲るものです。(報恩院は)関東護持の門跡であるため、それを引き継いで祈祷を行うように申し付けました。よってその証拠としてこの四種を隆勝に預け置くつもりです。とりわけ重書等は将来の御末資(法皇)の時に、醍醐寺から持ち出されることがあれば、必ずこの祖師の起請や勅書等を提出して事情を訴え申し上げるためです。決してこれに違うことがないようにという状はこの通りです。徳治三年五月廿九日 権僧正【(憲淳)】〈判〉

この中で憲淳は後宇多法皇が報恩院に住持した場合でも、「関東護持」の祈祷に必要な本尊等「四種」は、別相伝として隆勝に譲り渡すと述べています。報恩院は「関東護持の門跡」(将軍の護持を行う院家)でしたが、天皇家の一員である後宇多法皇がその役割を果たすことはあり得ないため、憲淳は隆勝にこの譲状を与え、「関東護持」を託したのでしょう。

さてもう一通は、後宇多法皇が報恩院に住持した場合に法皇に進上する本尊・重書・道具の目録でした。この中には、代々の祖師から相承された本尊や道具が多く含まれていました(史料2)。このように憲淳は法皇が報恩院に住持した場合は、法皇を正嫡として門跡(院主)を継がせる心づもりであったことがわかります。しかし法皇による報恩院への住持は実現せず、徳治三年八月の憲淳の入滅後、法皇と隆勝は本尊や重書の所有をめぐり対立しました。

もともと憲淳や隆勝の住持していた報恩院は、将軍家と深い関わりを持っていました。鎌倉前期、醍醐寺座主であった勝賢は「右大将家」源頼朝の「護持」のために、「関東」(鎌倉)に向かい、「武家安全」を祈祷したとされています(史料3)。勝賢の弟子である座主成賢も建暦三年(1213)に「鎌倉御祈」として尊勝法を勤修し、承久年中(1219~1221)には「将軍のため、京都において御持僧として御祈を勤行せしめ給うべし」として、将軍「護持」の御教書(命令書)を承っています(2函77号)。勝賢・成賢ともに三宝院流の先師であり、報恩院にとっても彼らの事績は「関東護持」の先例として尊重されました。その後、報恩院の覚雅は鎌倉の「二階堂」(永福寺)に住持し、正応五年(1292)病臥にありながらも、その地で憲淳を正嫡として「宗大事・大法・秘法」を相承させたのです(3函20号3番)。翌年永仁元年(1293)、憲淳は執権北条貞時から「関東御祈祷」の勤仕を命じられています(2函89号1番)。そして徳治三年(1308)四月、憲淳は自身の病気により、今後は隆勝に武家祈祷を勤めさせることを北条貞時に申し出て、五月廿二日承認されました(2函89号2・3番)。このことを受けて、憲淳は隆勝に冒頭の譲状を与えたことがわかります。譲状の中に掲げられている「転法輪筒」(史料4)は調伏のための「転法輪法」において用いる法具で、「関東護持」には欠かせないものでした。しかし延慶二年(1309)六月、隆勝は「転法輪筒」が法皇の許に「召置」かれていると北条貞時に訴えています(2函89号4番)。おそらく隆勝は強力な権力を持つ法皇との相論を有利に運ぶためには、幕府の助力が不可欠であると考えたのでしょう。隆勝はこれに先立つ四月、報恩院に伝わる重書を貞時に進上しています(史料5)。 

隆勝僧正の状の案

弘法大師の「聖筆」の観音経一巻をお目にかけます。この経は、特に霊験のある「聖筆」でありますので、代々の祖師が大法をお勤めになる時、経箱に納めた重宝の中の一つです。同じく「聖筆」の般若心教一巻を太郎殿(貞時の息、後の高時)に進上いたします。この経は大安寺経蔵の廿巻心経の内のものです。両巻ともに師資相承されてきた大変貴重なものであり、「御護」として進上いたします。表紙はこの度修複しました折に、宸筆をお願いして下していただきました。ご都合のよい時に、(貞時様に)ご披露いただきたいと存じます。恐れながら申し上げます。(年月日等略)追って申し上げます。象牙の枕を進上いたします。同じように(執権北条貞時様に)ご披露いただきたいと存じます。

これは、空海筆という報恩院のみならず真言宗にとっても貴重な経典二巻を貞時に進上することにより、幕府への忠誠を表して、さらなる幕府の後援を期待したいという思いがあったからに違いありません。しかしその後まもなく幕府は崩壊したこともあり、隆勝と後宇多法皇との対立は終息することなく、その弟子たちに引き継がれていきました。

このように後宇多法皇が憲淳と関わりを持ち、法流を相承したことにより、その後、報恩院に伝わる法流は混乱しました。しかし一方で後世においては法皇の相承を一つの根拠として、三宝院流の「正流」(嫡流)であることが主張され、広く認識されていくことになりました。そして報恩院と鎌倉幕府との関わりは、室町幕府に継承されていくことになりました。

-参考文献-

  • 辻善之助氏「両統対立の反映として三宝院流嫡庶の争」(『日本仏教史之研究』第三巻、金港堂書籍、昭和六年)
  • 永村眞氏「寺院と天皇」(『講座 前近代の天皇』第三巻、青木書店、平成五年)
  • 同氏「醍醐寺報恩院と走湯山密厳院」(『静岡県史研究』六号、平成二年)
  • 澤博勝氏「両統迭立期の王権と仏教-青蓮院と醍醐寺を中心に-」(『歴史学研究』六四八号、平成五年)

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