今回初公開の杉戸絵は、江戸初期の画家・狩野寿石敦信(以下、杉戸絵を手掛けた頃の名、秀信と記す)(1639頃-1718)および、江戸中期の画家・山本探川(1721-1780)、江戸後期の画家・山口素岳(天保頃)などの筆によるものである。(関係図参照) 皇族や公家が座主(住職)を務めてきた醍醐寺では、法眼や法橋などの特別な称号(僧位)を朝廷より叙された絵師達がしばしば障壁画を描いている。今回初出の山本探川においても、僧位の署名を認めることができる。
醍醐寺と狩野家
慶安年間(1650頃)、狩野素川信政(以下信政)は、息子の秀信とともに、三宝院奥宸殿の障壁画を手掛けた。特に、奥宸殿周辺の杉戸絵を描いた秀信は署名に12歳と記している。当時の12歳頃は元服をはじめとした成人の儀が行われる特別な時期である。秀信は、若くして醍醐寺に入山した高賢(第82世座主)と同じ齢であり、高賢のために署名に年齢を入れたのであろう。
高賢の父の叔父にあたる当時の座主は、鷹司信房の息・覚定であり、その姉・孝子は徳川家光に嫁いでいる。信政は家光の妹・東福門院の御用絵師であり、覚定と縁戚関係にある狩野探幽
(以下探幽)の娘婿である。探幽もまた、醍醐寺塔頭・理性院の障壁画を描いている。
山本家と5代目・探川
三宝院奥宸殿(通常非公開)狩野素川信政筆 1651年頃
探川は狩野派を継承する山本家の5代目当主であり、法眼の称号を叙されている。山本家、2代目の素程と3代目の素軒は探幽に師事した。素軒は尾形光琳が師事したことで知られ、霊元天皇より、姉にあたる先の天皇、明正院の70歳を祝う屏風を依頼されている。そして4代目宗川の法橋叙位を推したのは、霊元天皇であった。
探川もまた、後桜町天皇の御即位新調の屏風制作をはじめ、法眼時代には仙洞御所造営の絵師に任命されている。その際、提出された連名記載の序列において探川は、土佐左近将監(朝廷より任命されている絵所預)、鶴沢探索(幕府御用)に次ぎ、3列目に記されている。公的文書における連名記載の順序は絵師の階層の序列でもあった。このことは、探川が御用絵師として、当時いかに重視され、著名であったかを物語っている。
醍醐寺に残る杉戸絵は、探川の法橋時代の作であり、三宝院における明和の修理と時期が重なる。同時期、円山応挙の師として知られる石田幽汀(以下幽汀)も、三宝院表書院の障壁画を描いている。その後、仙洞御所の障壁画制作にも名を連ねるが、その際の序列は探川より後であった。家系的御用歴や朝廷との結びつきが重んじられた時代である。探川と同じ齢の幽汀の、法橋や法眼叙位がやや遅れていることからも、代々御用に関わってきた山本家の家格を知ることができる。
また、琳派的エッセンスを感じさせる山本家のおおらかで雅な作風は、位の高い依頼主より、私的な仕事をも仰せつかったことであろう。
醍醐寺と絵師たちの交流
明和2年(1765)、閑院宮家から鷹司家を継いだ輔平の息子として、後の第86世座主となる高演が誕生する。高演もまた天皇家と徳川家との縁戚関係にあり、醍醐寺には高演のいとこの光格天皇から下賜された品が伝わる。高演の出家に向けたとも考えられる明和の三宝院改装の際、宮家との信頼関係により、探川にも白羽の矢が立ったのであろう。
なお高演の誕生を安永2年(1773)とする説もあり(『真言宗年表』国書刊行会1973)、その場合、第85世座主良演や、童形衛君の入室などが、杉戸絵制作の背景に浮上する。何れにしても、探川が醍醐寺の仕事を担った経緯には、光格天皇を補佐した時の上皇、後桜町院やその縁戚との関係が示唆されよう。
ところで、探幽の弟子、鶴沢家から幽汀→応挙と繋がる先に、醍醐寺に障壁画を残した松村呉春→松村景文、塩川文麟への流れと、応挙十哲の一人と称される山口素絢→山口素岳が並ぶ。素岳は醍醐寺の杉戸絵(図11、12)を描いており、他にも3幅の肖像画「一海像」「甚信像」「観賢像」を残している。肖像画は天保15年(1844)頃の作であり、紙背に「絵所素岳」と記されている。
一方、その師を幽汀とも応挙ともする原在中(『造内裏指図御用記』寛政元年6月においては円山主水弟子となっており、応挙の門人として内裏の仕事に携っている)については、醍醐寺に仏画を複数描いているほか、交流を示す文書「宮中御用几帳図」文化10年(1813)や屏風「崖下菊花図」が継承されている。その活動時期からは、今回初出の素岳をはじめ、醍醐寺に関わる絵師たちの交流が窺われる。
このように江戸時代においては、門跡寺院と宮家、公家、徳川家との複雑な関係の中、絵師たちもまた、それぞれに、時の権力者と関わり、絵師同志の交流が図られていたのである。
三宝院宸殿に伝わるエピソ-ド
三宝院奥宸殿および奥居間は、座主の日常生活が営まれた場所とされる。高演をはじめ、当時の座主は若くして得度しており、幼少時より醍醐寺に入ることもあった。特に閑院宮載仁親王(1865-1945)においては、御年2歳で醍醐寺に入室し、明治4年(1871)に還俗するまでの間、この宸殿で過ごされた。現在、奥宸殿や奥居間の杉戸絵をはじめ、その周囲の桟や鴨居には、親王の残した矢遊びの跡が認められる。
今回初出の杉戸絵、図1-12は、長らく建物から外され、別に保管されていたため、その由来が不明であった。しかし、展示するにあたり、新たに図1、2、5、6、9-12に、奥宸殿に見られる矢遊びの跡と同じ痕跡が複数見受けられた。このことより、これらの杉戸絵は、三宝院奥宸殿および奥居間のために描かれ、使用されたと考えられる。
今回の展示には、通常公開されることのない、座主の為に捧げられた芸術、その空間を是非、感じてほしいとの、当代座主の願いがあった。現在も奥宸殿や奥居間に入る際は、舞楽図の杉戸絵(図13-16)に迎えられる。
作品ごとの解説は初公開の杉戸絵についてであり、他の展示作品は各キャプションを参照していただきたい。また展示の都合、背面となる各画についても、紹介させていただいた。