三宝院は永久3年(1115)、醍醐寺第14世座主・勝覚僧正により創建されました。醍醐寺の本坊的な存在であり、歴代座主が居住する坊です。現在の三宝院は、その建造物の大半が重文に指定されている。中でも庭園全体を見渡せる表書院は寝殿造りの様式を伝える桃山時代を代表する建造物であり、国宝に指定されています。国の特別史跡・特別名勝となっている三宝院庭園は、慶長3年(1598)、豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して自ら基本設計をした庭であり、今も桃山時代の華やかな雰囲気を伝えています。
葵祭は、祇園祭、時代祭と並ぶ京都三大祭のひとつです。襖絵には下鴨神社から上賀茂神社へ向かって行列している葵祭の様子が描かれています。
襖絵には秋の七草が点在する広々とした風景が描かれています。
ここの襖絵は竹林花鳥図です。桃山時代の作品で、長谷川等伯一派の作といわれています。
門跡寺院としての三宝院にあり、朝廷からの使者を迎える時だけに扉を開いたとされる門(勅使門)が唐門です。創建時は、門全体が黒の漆塗で菊と桐の四つの大きな紋には金箔が施されていました。平成22年7月、約1年半をかけ、往時の壮麗な姿に修復されました。その大胆な意匠は、桃山時代の気風を今に伝えています。
庭に面して建っている表書院は、書院といっても縁側に勾欄をめぐらし、西南隅に泉殿が作りつけてあり、平安時代の寝殿造りの様式を取り入れたユニークな建築で、下段・中段・上段の間があります。下段の間は別名「揚舞台の間」とも呼ばれ、畳をあげると能舞台になります。中段の間、上段の間は下段の間より一段高く、能楽や狂言を高い位置から見下ろせるようになっています。
上段の間の襖絵は四季の柳を主題としています。中段の間の襖絵は山野の風景を描いており、上段・中段の間は、長谷川等伯一派の作といわれています。下段の間の襖絵は石田幽汀の作で、孔雀と蘇鉄が描かれています。
幹の太い立派な五葉松が島全体を覆っていて、亀の甲羅のように見える島が亀島です。この松は樹齢六百年以上といわれる天下の名木で、亀の「静寂」を表しています。
亀島の西隣にある島が鶴島です。この松は五葉松で、向かって左側の石橋が鶴の首にあたり、今にも鶴が飛び立とうとしている「躍動感」を表しています。
池の手前に三つの珍しい形の石があります。向かって左の石は、賀茂川の「流れの速いさま」を、中の石は「川の淀んだ状態」を、右の石は「川の水が割れて砕け散る様子」を表しています。
庭の中心に位置するこれらの石は、阿弥陀三尊を表しています。歴代の武将に引き継がれたことから「天下の名石」といわれています。
豊臣秀吉を祀る社です。三宝院殿舎や庭園の整備、五重塔の修復や金堂の再建など、醍醐寺全体の復興に尽力した太閤秀吉の恩に報いるために建立されました。
庭の南東にある建物が、茶室「枕流亭」です。茶室の出入り口は「にじり口」が一般的ですが、枕流亭は「貴人口」なので、かがまずに出入りすることができます。内部は3部屋に分かれ、南側から上段・中段・水屋の間となっています。柱には棕櫚や栗などの珍しい木が使われています。
三宝院庭園の東南隅に位置する滝。深山の趣を加え、滝山を高くし、立石などの作庭がされ、各々の滝の音が、さらにこの庭園を引き立てています。
太閤秀吉が槍山で花見をしたときの建物を移築したものといわれています。襖絵の桜・紅葉は、平成に入って浜田泰介画伯が描いたものです。
本尊が快慶作の弥勒菩薩であるため、別名「弥勒堂」といわれています。脇仏として向かって右に宗祖弘法大師、左に開祖理源大師が安置されています。本堂の裏に護摩壇があり、「護摩堂」とも呼ばれています。
本堂わきにある「酒づくし」の庭。苔と白砂だけで瓢箪徳利、盃等を表しています。
奥宸殿は、江戸初期に建てられたといわれています。田の字型の間取りをしており、主室の上座の間は、床棚書院及び、帳台構(通称:武者隠し)を備えています。棚は、「醍醐棚」と呼ばれる有名な違い棚で、修学院離宮の「霞棚」、桂離宮の「桂棚」とともに「天下の三大名棚」と称されています。
奥宸殿の東北側に、茶室・松月亭があります。この茶室は、江戸末期に作られたとされ、四畳半で、東に丸窓が有るのが特徴です。南側に竹の縁、躙り口があり、屋根は切妻柿葦の造りです。